たとえて言うなら

例えて言うなら、そう、たまたま通りかかった紅茶のショップで、

フィーリングだけでかった普段飲んだことのないような

ミックスフルーツのハーブティーティーバッグ10個入り。

最初の一杯を淹れる。



すこしウッとくる香りがきっとハーブティーの特徴なんだと

あまり好みではない香りを受け入れつつ

味に期待してみる。

そして一口飲んで、やはり自分の口に合わないと感じる。





そのあと、何杯その紅茶を飲めるだろうか。

1杯飲んだだけで、あ、まずいといって残りの9杯を捨ててしまうのか。

或いは

何回か飲むとおいしいかもしれないと思ってもう一度紅茶を淹れるのか。

しかし同じ繰り返しをしてもやっぱりまずいと思うだけの繰り返し。


2杯目は1杯目と淹れ方を変える。最初は30秒でティーバックを捨てていた。

次は沸騰したてのお湯でじっくり5分抽出しよう。

だって、そうティーバックに書いてあるから・・。

書いてある通りにすればおいしいに違いない。



うん・・・。たしかに前より良い。

やはり素直に書いてある通りに淹れればよかった。

でも前より良いだけ。

近くのコンビニで3分の1の値段で売ってある

安いダージリンティのティーバッグのほうが

はるかに僕には好みだと思う。

次はお茶受けを変えてみればよいのだろうか。

甘いチョコレート。甘いケーキと共に飲んで初めて

この紅茶は本性を現すのかもしれない。



3杯目の紅茶を飲む。甘いチョコレートと共に。

だいぶよくなった。

甘さを中和する渋さの欲求にこの紅茶が応えてくれる。

でも、毎回飲もうとは思えない。

しかし後7杯飲まないといけない。




・・。

7杯飲まないといけないだろうか。

でも飲まないと本来人に飲まれることによって全うされるこの紅茶のティーバッグは

本来の運命を全うせずにただゴミとして捨てられる。

あいにくこの口に合わない紅茶を託す友人もいない。



今目の前にダージリンティとフルーツミックスハーブティのティーバッグがある。

どちらを飲むのも自由だ。

ダージリンティは裏切らない。でも特別何か刺激を与えることもない。

フルーツミックスハーブティはダージリンティのように楽をして淹れると全く飲めたものじゃない。

でも、その渋さは癖になっているのも確かである。

楽をして一定の幸せを得たいのか、或いは多少の失敗を甘受して何か新しい刺激を得たいのか。



そうして、いつの間にか賞味期限切れとなり、自ら取捨選択することなく紅茶はなくなるのだ。